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株式会社JERA

第8問

【幕府中興の祖として知られ、享保の改革など倹約に努めた8代将軍・吉宗。彼のあだ名「○将軍」とは?】

正解は「米将軍」でした。

すでに紀伊藩主として実績を挙げていた吉宗は、将軍を中心とする政治を復活させました。

吉宗は、幕府の財政を立て直すべく、質素倹約や新田の開発に努めたことから米将軍というあだ名がつきました。他にも貨幣や制度の刷新、人材登用などに優れた実績を残した彼の政治は、享保の改革として有名です。

第9問

【吉宗の次男、四男に加え、9代将軍・家重の次男をそれぞれの祖とする3つの家のことを、まとめて何という?】

正解は「御三卿」でした。

御三家御三きょうは、将軍家に世継ぎがいなかった場合に、将軍を継ぐ権利を持つなどの特権を持っていた家柄のことです。

御三家は、家康の3人の息子をそれぞれ祖とする、尾張、紀伊、水戸の3つの家を指します。それぞれ藩を治める大名家でもありました。

御三卿は、吉宗の2人の息子と、9代将軍・家重の息子をそれぞれ祖とする、田安、一橋、清水の3つの家のことをいいます。藩を持たず江戸城内に住み、その距離の近さから、しばしば御三家よりも強い影響力を持ちました。

第10問

【10代将軍・家治の世で重用された、経済政策に優れていた一方、賄賂政治の横行を招いたともいわれる重臣は誰?】

正解は「田沼意次」でした。

家治は商業や経済を重んじ、家臣の田沼意次おきつぐを重用しました。意次は、商工業者の組合であった株仲間の奨励や蝦夷地(現在の北海道)の開拓など、経済的政策に努めました。

しかし、相次ぐ天災によって成果が上がらなかったことや、賄賂が横行にしたことにより意次への批判は高まり、やがて失脚へと追い込まれます。

以前は、賄賂や汚職などのマイナスイメージが強かったものの、その経済的手腕や革新的な考え方など、評価が見直されつつある人物でもあります。

第11問

【11代将軍・家斉の世に松平定信によって主導された、倹約政策を主とする改革を何という?】

正解は「寛政の改革」でした。

家斉の時代には、田沼意次による商業を重んじた政策や、度重なる飢饉ききんによって農村部は酷く荒廃し、農民は困窮していました。これを立て直すために改革を行なったのが、当時老中だった松平定信。徳川吉宗の享保の改革を手本とした彼の政治は、寛政の改革と呼ばれます。

江戸に流出してきていた農民を農村へ帰す人返しや、飢饉に備えるための七分積金などの政策が行われました。

松平定信

しかし、幕府に批判的な思想を罰したり、娯楽を制限したりと、あまりに行き過ぎた倹約政策によって、武家や町人からは不満が高まりました。

第12問

【12代将軍・家慶は将軍に就任するも、退位した父・家斉がいまだ実権を握り続けていました。このように将軍を退位した前将軍のことを何という?】

正解は「大御所」でした。

将軍を譲った前将軍のことは大御所おおごしょと呼ばれます。多くの場合、大御所として権力を握っていた家康、家斉のことをいいます。

11代将軍・家斉は、1837年に息子の家慶に将軍位を譲った後も、1847年に亡くなるまで大御所として権力を握っていました。そのため、家斉の治世を大御所時代と呼ぶことがあります。

11代将軍・家斉

この時代は、化政文化と呼ばれる町人文化が、江戸で栄えた時代でもあります。

第13問

【13代将軍・家定に嫁いだ、薩摩藩主・島津斉彬なりあきらの養女は誰?】

正解は「篤姫」でした。

家定は病弱で子どもを持てず、当時幕府は、次代の将軍を水戸藩出身の慶喜にするか、紀伊藩出身の家茂いえもちにするかで割れていました。そこで水戸派であった島津斉彬が、政略のために送り込んだのが篤姫です。

篤姫

しかし結局14代将軍は家茂になります。彼の元には天皇家から和宮が嫁ぎました。

幕末、彼女たちの実家はともに倒幕派となります。彼女たちが行なった実家に対する説得は、江戸城無血開城に一役買ったといわれています。

第14問

【14代将軍・家茂の世で起こった、大老・井伊いい直弼なおすけが襲撃され殺害された事件を何という?】

正解は「桜田門外の変」でした。

13代将軍・家定の時代の幕政は、後継問題と開国の問題を抱えていました。大老に就任した井伊直弼なおすけは開国やむなしという立場に立ち、鎖国を訴える水戸派(=慶喜派)と対立します。

直弼の擁立により14代将軍は家茂となり、日米修好通商条約によって開国をもたらします。しかし、直弼は反対派を厳しく弾圧(安政の大獄)したことにより、水戸・薩摩の浪士らに江戸城・桜田門外で殺されました。

桜田門(外桜田門)

第15問

【15代将軍・慶喜が行なった、幕府が持っていた政権を朝廷に返上することを何という?】

正解は「大政奉還」でした。

後継問題に敗れた慶喜は、紆余曲折を経て14代将軍・家茂の後見役に就任しました。そして家茂の死後、15代将軍に就きます。慶喜は、幕政の改革を行い、幕府主導で開国を進めようとしましたが、天皇を奉り、外国勢力を追い払おうとする尊皇攘夷派に阻まれます。

薩長同盟などが決め手となり、幕府のみによる政治をやめ、幕府と朝廷が合体(公武合体)することを目的に、大政奉還が行われました。しかし、その後薩長などの討幕勢力に敗北し、公武合体は実現せず、江戸幕府の系譜は幕を下ろしたのです。

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この記事を書いた人

藤原

東京大学理学部3年の藤原と申します。東京大学クイズ研究会に所属しています。 クイズも学問も初心者で勉強中ですが、いつもなんらかの未知をお届けできたら嬉しいです。よろしくお願いします。

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